関羽様の人柄を語るうえで「義」は忘れてはなりません。義とは「義理人情」「義を見てせざるは勇なきなり」といわれているように義侠心のことです。劉備は「仁」に、関羽様は「義」に最も重きをおいていると言われ、その代表的な逸話は曹操との一件です。
それは建安5年(西暦200年)劉備は小沛で曹操に敗れ、袁紹のもとに落ちのびたとき、関羽様の元には劉備夫人が居たために、曹軍の武将張遼の説得を受け入れ、曹操に降伏を決意します。しかし、関羽様は曹操に降伏するにも、次の3つの条件を引き替えに出しています。
1、曹操に降伏するのではなく漢朝に降伏する。
2、劉備夫人の安全を保証すること。 3、劉備が生きていることがわかれば劉備のもとに帰る。
このことでも判るように、関羽様の劉備に対する忠誠心は、揺るぎない絶対的なものでした。曹操はこの様な関羽様の人柄に惚れこみ、偏将軍の位
や金銀財宝を与え、さらに赤兎馬という名馬を与えたりと礼遇をきわめました。しかし、関羽様は金銀財宝には興味を示さず、それらをすべて劉備夫人に献上し、赤兎馬だけを手もとに残し、これで劉備のもとに駆けつけられると喜んでいたといわれています。
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やがて袁紹が白馬に攻め込んでくると、関羽様は曹操から受けた恩への返礼として袁紹軍の将顔良、文醜を切り曹操軍に勝利をもたらします。その後、離散していた劉備の行方が分かると屋敷を片付け、贈物をすべて曹操に返還し、劉備夫人をともない曹操のもとを脱出します。関羽様は劉備夫人を守りながら、5つの関所と6人の将を斬り倒し、劉備のもとへと向かったと言われています。
また、「赤壁の戦い」や「荊州南郡進攻」などは、関羽様の義侠心の厚さをより一層物語るものとして語りつがれています。
まず、赤壁の戦いでは、逃げてきた曹操の命乞いに対し、それを許しています。袁紹軍の武将顔良、文醜を斬って恩を返したとはいえ、「義」に厚い関羽様は曹操の要求を断ることができなかったのです。荊州南郡の張沙城を攻めたとき、老将黄忠と一騎打ちを演じましたが、黄忠が落馬しても「馬を乗りかえられよ」と引き返していくなど、史上これほど義侠心に厚い人物は類を見ません。
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また、関羽様は常に弱い立場である民衆の味方であったため、戦死した後も人々から支持され、関帝として祀られ崇拝され続けました。
関羽様に対する崇拝は、蜀建国後七年、つまり死後九年(西暦228年)、蜀漢から壮繆候の謚(おくりな)を授かり、祭祀されたことから始まります。
しかし、実際の民間における崇拝は唐朝時代から始まっています。歴代の王朝は関羽様の信義・忠勇の精神を世人の手本とし、さまざまな称号を贈り、神明として勅封しました。
次に歴代の王朝から下賜された主な封号を挙げてみました。
第一に、唐朝の高宗帝は、儀鳳元年(西歴676年)に「伽藍神」(がらんしん)の称号を贈り、神明として勅封しました。この称号はその後仏教の護法神明として使われています。
第二に、明朝の神宗帝は萬歴42年(西暦1614年)に「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」の称号を贈り、神明として勅封しました。この長い称号が関聖帝君と略称され、後世儒家の亜聖と道教や通
俗信仰の神明の称号として使われています。
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第三に、清朝では満州で挙兵以来、常に関帝の神助が多大にあったということで建国後は王朝の守護神として手厚く祀られ、更に関羽様に「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」と言う長い封号も贈っています。
この様に朝廷と民衆の両方から支持をうけて、関帝廟は忽ちに全国津々浦々各地に広まり、数千の廟が建てられました。あまりにも建てられた関帝廟が多くて、関帝一人では手がまわりかねるので、代理の関帝が務めたという、面
白いエピソードも残っている程です。
関帝廟は文廟と呼ばれる孔子廟に対して武廟と呼ばれていますが、実際は武神のほか、民間では老爺とよばれ、幽界のもっとも有力な神としても崇められていました。
また武将として理財にも精通していたため、商人は「財神」すなわち金儲けや商売繁昌の神として信仰しています。
武将にとっても商人にとっても一番大切なものは信義・信用という点から、商業神としての信仰も厚く奉られています。関羽様に対する信仰は中国本土にとどまらず、次第に世界各地に広がりました。
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